そして、鬱病と向き合う。

最初にクリニックに行った日の事は鮮明に記憶にあります。無理をお願いして夜7時頃から。カウンセリング、診察、薬局を開けて頂いて帰ったのは11時を回っていた。身体中、痺れていて、まさに這うようにたどり着いた。居心地の悪い家に。不機嫌を露にする主人。もう、傷つく気力さえなかった。ジェイゾロフトデパスメイラックス、不眠の為にマイスリー。どれもこれもマックス量で、食事も取らずに飲んだ。3日くらいはまだ効き目が出ないと言われていたので、相変わらず、発作に見舞われていた。娘は、常にカリカリしていた。主人がまるで無関心なのに憤っていた。鬱病になってしまった申し訳なさを一番強く感じていた。二日後には仕事がある。そして、その後、1年間、リストラされるまで、私が覚えている仕事はこのたった二日後の仕事だけになる。立っていても、膝がガクガクと震える。展示会の仕事で、笑顔を振りまきながら、どれ程、ひきつってはいやしないか、気が気でなかった。とにかくデパスデパスとなる。少しでもましになりたい。その頃は、ジェイゾロフトデパスメイラックス達が私の鬱病を治してくれると信じて疑わなかった。本当に大切なのは、ストレスからの解放に他ならないのに。そして減薬していく過程で治っていくことを、やっと、つい最近、知った。入院という過程を経て。入院する事によって、抗うつ剤精神安定剤を抜かれるのだ。私は面食らったが、早く入院すればよかったと、少々、先生を恨めしく思った。

自宅付近で、何度か目にしていた診療内科の看板。正直、目に留まって、記憶に残っていたこと自体が不思議なくらいだった。多分、「あー、こういうところに通わなきゃ、いけない人もいるんだ」って自分とは無縁の看板。それが救いの看板に変わるまで、そんなに時間は掛からなかった。手がさしのべられている感覚に、迷いなく予約のお願いをした所、「いっぱいですね。1週間後ですね」「今すぐですか?無理ですよ。」電話の向こうの事務員の声が、ただ単に、日常化されてる応答だろうに、無機質に聞こえる。「お願いします。待てません!死んでしまいます!」強烈な身体の膠着に加え、ひたすら続く過換気症候群で、私には言い様のない自殺念虜が芽生えていました。「幽体離脱」出来るなら、この苦しい身体と自分の魂を引き裂いてほしい。悲しいかな。ベランダに出ても、自分を持ち上げる力さえ、出ない。恥ずかしながら、鬱病に対して、強い偏見を持っていたことを知らされる。
彼らは、死にたくて死んでいるのではなくて、鬱になった身体を手放したい衝動が引き金になっているのだと。娘や息子が引きずりながら、私の自殺を止めていなかったらどうなっていたのだろう。
だから世の中の人にこれだけは知って欲しい。鬱病の人の自殺を責めるのではなく、生き延びる術を知らないのだと。そして、もしかしたら同じように苦しんでいる人にも、いつか、空を見上げる事が出来る。その時、私の手はベランダの柵を越えようなんてしていない。雲を見上げれば、母が見守ってくれている。虹が出れば、母が虹の階段から私を応援してくれていると感じることができるようになるということを。
診療内科に、必死で思いの丈を伝え、3日後の診察となった。まさか、鬱病?これが?ネガティブな感情の人間が辛いことに出くわし、突然、発症する程度にしか、考えていなかった。今なら言える。いつ、誰がなってもおかしくない。なってしまってからでは、大変な日々が待ち受けている。私は、そのことを伝えなくてはいけない、そう、回復してきた今だからこそ、なのだ。私は何の苦もなく、当たり前な日常を送っていたはずだった。けれど、カウンセリングの先生は、私の姿と症状を見るなり、こりゃ、鬱にはなるわと言い放った。どうして?何が?いけなかった?机に伏して、涙が止まらない。薬を大量に出してもらい、私は仕事を続ける選択をした。今抜ける訳にはいかない。今なら言える。「どうしてすぐに止めなかったの?あんたってば、それで好い人気取り?誰も、そんなに辛い身体で仕事なんてやれとは言わないんだからね。」
齋藤茂太さんの「うつにならない心の作り方」から抜粋させて頂くと私のようなタイプは何より大切なのは他人に認められることであり、誰に対
してもいい顔したい願望があるのだと書いてある。平たく言うと、鬱病なのに仕事やってる頑張り屋さんの称号が何より嬉しい。最初、否定的に捉えていたこの文脈が、後に私の自己評価と合致する。
こうしてblogを書いていること、そのものがそうではないか?
齋藤茂太さんは、こうも言う。憂鬱が鬱に至るのを防ぐためにはとにかく一つの考えにとらわれていないこと、(中略)頑張り過ぎてはいけないこと(中略)心悩ますことから、身を引くことを戦力的に学ばなければならない。逃げ出すことは良いことなのだ。失敗や負けることに過剰にとらわれすぎてはいけない。(以上うつにならない心のつくりかた 齋藤茂太 ぶんか社文庫)
鬱病のど真ん中にいた頃は、そんなフレーズも好い人気取りで大嫌いだった。でも、今なら分かる。
私は、家事を完璧にこなせないと文句を言われる主人には意地と言う縛りに囚われ、「いつ、来てくれるんだ?」とひっきりなしに掛かってくる父の電話には、母を死に追いやったという引け目でがんじがらめになっていたのだ。そこには、勿論、憎しみという感情も介在する。
しかし、逃げ出すこと等毛頭、頭になかった。これが私の生きている意味、社会的に貢献している意味だと勘違いしていたことに七年もの歳月を費やしてようやく気づいたのだ。
つまりは、認められたいと言う自己評価に繋がる。自己不在の他者依存だったのかもしれない。でも、今なら分かる。私は生きているというだけで意味があるのだと。だから、これが普通だと思いながら、心身ともに、疲れきっている人へ。鬱病の入口は、大きな口を拡げて待っているのです。人は、何度かこけても、這い上がり、鞭打ちながら、この時期を突破しようとしている。でも、いつか、転げ落ちた時、どんなに這い上がろうとしても、鬱に飲み込まれてしまうこともあると知ってて欲しい。

鬱と躁のはざまで介護を生ききる。

子供たちのざわめき声で夏休みに入ったことを知る年ごろとなりました。 
子供たちと過ごせる素晴らしい時間。慌ただしく過ぎていく時間ですが、宝物です。今の私は子供から絶縁状を叩きつけられ、自宅にも戻れない日々だからです。
いえ、戻ってはいけないから、娘が絶縁してくれているとここは捉えた方が正解です。
何故ならば、私は別居状態を作らないといけないからです。まさに、人生において一度限りの人生をリセットしようとしています。
正確に言うと、既に×1つもらってますから、再リセット。
準備満タン?いえいえ。鬱病に加えて、躁まで入り込んで、集中しようとすると目眩でくらっくらっ。今も求人を見てくらっくらっです。
私がこのblogを始めたのは、私みたく、くらっくらっの人を増やしたくないから。
心の風邪だとあやふやな表現で、揶揄されている鬱病、躁鬱に関して、溢れかえっている誤解を解きたいと思います。
前置きはこのくらい。母が癌で十数年前亡くなり、自宅の家事→仕事→実家の父の世話と今では計り知れないスピードで物事をこなしていました。まだ子供たちは中高生。良くも悪くも、自身の人生で最大限の力を発揮していたと思います。
最近になって、ようやく、分かったのですが、頑張り過ぎてました。母の死から半年後に不眠が始まります。全く眠れない、日中も眠れない。二日続いた所で、婦人科の門を叩きました。43歳くらいでしたが、更年期障害だと思い込んだのでした。いや、正確に言うと更年期障害もあり、だったと思います。内診(子宮内膜の薄さで分かるそうです)私は同年齢の人の半分以下でした。更年期障害決定の瞬間です。血液検査も60歳代だとか。ホルモン出てませんねぇということになり、大量のホルモン剤とホルモン注射で、私は競馬さながらのお尻で鞭打つ感覚で忙しさに適応しようと必死でした。
1年半、治療の末、私は、身体中が痙攣してパニックに陥ります。くらっくらっです。固まっていく身体を叩きながら婦人科に駆け込みました。ベッドに横たわらせてもらい過換気症候群(過呼吸発作)の私に先生が静かに語りました。あなたは私の患者じゃないと。あなたは「もう」とついていたかは、定かではありません。とりあえず胸を叩いて、こっちの方だと。これが青天の霹靂と言えずに何が霹靂でしょう。ビニール袋で呼吸の応急手当てを受けながら、また信じられない言葉が頭の上で告げられます。
診療内科に紹介状書いてあげようと思ったけど、三ヶ月待ちだって。自分で探して。と。
私は、既に1年半前から鬱病に浸食されていたのだ。それにも気づかず、毎週、毎週、ホルモン注射で、誤魔化し続け、まさかの「患者じゃない」がエンディングコールでした。思えば、更年期障害の代表的なホットフラッシュや、生理痛もなく。しかし、私はこの時を境に女の象徴も失いました。無理矢理、出血させていたホルモン治療で、私は、生理を迎えていたのです。そう、考えれば、鬱病が本命。更年期障害は大穴だったかもしれませんね。誰も恨むことなかれ、気づける方がおかしいのだから。こうして、私は次の階段、それも急勾配の終わりの見えない戦場に向かいます。では、今日はこの辺で。