自宅付近で、何度か目にしていた診療内科の看板。正直、目に留まって、記憶に残っていたこと自体が不思議なくらいだった。多分、「あー、こういうところに通わなきゃ、いけない人もいるんだ」って自分とは無縁の看板。それが救いの看板に変わるまで、そんなに時間は掛からなかった。手がさしのべられている感覚に、迷いなく予約のお願いをした所、「いっぱいですね。1週間後ですね」「今すぐですか?無理ですよ。」電話の向こうの事務員の声が、ただ単に、日常化されてる応答だろうに、無機質に聞こえる。「お願いします。待てません!死んでしまいます!」強烈な身体の膠着に加え、ひたすら続く過換気症候群で、私には言い様のない自殺念虜が芽生えていました。「幽体離脱」出来るなら、この苦しい身体と自分の魂を引き裂いてほしい。悲しいかな。ベランダに出ても、自分を持ち上げる力さえ、出ない。恥ずかしながら、鬱病に対して、強い偏見を持っていたことを知らされる。
彼らは、死にたくて死んでいるのではなくて、鬱になった身体を手放したい衝動が引き金になっているのだと。娘や息子が引きずりながら、私の自殺を止めていなかったらどうなっていたのだろう。
だから世の中の人にこれだけは知って欲しい。鬱病の人の自殺を責めるのではなく、生き延びる術を知らないのだと。そして、もしかしたら同じように苦しんでいる人にも、いつか、空を見上げる事が出来る。その時、私の手はベランダの柵を越えようなんてしていない。雲を見上げれば、母が見守ってくれている。虹が出れば、母が虹の階段から私を応援してくれていると感じることができるようになるということを。
診療内科に、必死で思いの丈を伝え、3日後の診察となった。まさか、鬱病?これが?ネガティブな感情の人間が辛いことに出くわし、突然、発症する程度にしか、考えていなかった。今なら言える。いつ、誰がなってもおかしくない。なってしまってからでは、大変な日々が待ち受けている。私は、そのことを伝えなくてはいけない、そう、回復してきた今だからこそ、なのだ。私は何の苦もなく、当たり前な日常を送っていたはずだった。けれど、カウンセリングの先生は、私の姿と症状を見るなり、こりゃ、鬱にはなるわと言い放った。どうして?何が?いけなかった?机に伏して、涙が止まらない。薬を大量に出してもらい、私は仕事を続ける選択をした。今抜ける訳にはいかない。今なら言える。「どうしてすぐに止めなかったの?あんたってば、それで好い人気取り?誰も、そんなに辛い身体で仕事なんてやれとは言わないんだからね。」
齋藤茂太さんの「うつにならない心の作り方」から抜粋させて頂くと私のようなタイプは何より大切なのは他人に認められることであり、誰に対
してもいい顔したい願望があるのだと書いてある。平たく言うと、鬱病なのに仕事やってる頑張り屋さんの称号が何より嬉しい。最初、否定的に捉えていたこの文脈が、後に私の自己評価と合致する。
こうしてblogを書いていること、そのものがそうではないか?
齋藤茂太さんは、こうも言う。憂鬱が鬱に至るのを防ぐためにはとにかく一つの考えにとらわれていないこと、(中略)頑張り過ぎてはいけないこと(中略)心悩ますことから、身を引くことを戦力的に学ばなければならない。逃げ出すことは良いことなのだ。失敗や負けることに過剰にとらわれすぎてはいけない。(以上うつにならない心のつくりかた 齋藤茂太 ぶんか社文庫)
鬱病のど真ん中にいた頃は、そんなフレーズも好い人気取りで大嫌いだった。でも、今なら分かる。
私は、家事を完璧にこなせないと文句を言われる主人には意地と言う縛りに囚われ、「いつ、来てくれるんだ?」とひっきりなしに掛かってくる父の電話には、母を死に追いやったという引け目でがんじがらめになっていたのだ。そこには、勿論、憎しみという感情も介在する。
しかし、逃げ出すこと等毛頭、頭になかった。これが私の生きている意味、社会的に貢献している意味だと勘違いしていたことに七年もの歳月を費やしてようやく気づいたのだ。
つまりは、認められたいと言う自己評価に繋がる。自己不在の他者依存だったのかもしれない。でも、今なら分かる。私は生きているというだけで意味があるのだと。だから、これが普通だと思いながら、心身ともに、疲れきっている人へ。鬱病の入口は、大きな口を拡げて待っているのです。人は、何度かこけても、這い上がり、鞭打ちながら、この時期を突破しようとしている。でも、いつか、転げ落ちた時、どんなに這い上がろうとしても、鬱に飲み込まれてしまうこともあると知ってて欲しい。