鬱と躁のはざまで介護を生ききる。

子供たちのざわめき声で夏休みに入ったことを知る年ごろとなりました。 
子供たちと過ごせる素晴らしい時間。慌ただしく過ぎていく時間ですが、宝物です。今の私は子供から絶縁状を叩きつけられ、自宅にも戻れない日々だからです。
いえ、戻ってはいけないから、娘が絶縁してくれているとここは捉えた方が正解です。
何故ならば、私は別居状態を作らないといけないからです。まさに、人生において一度限りの人生をリセットしようとしています。
正確に言うと、既に×1つもらってますから、再リセット。
準備満タン?いえいえ。鬱病に加えて、躁まで入り込んで、集中しようとすると目眩でくらっくらっ。今も求人を見てくらっくらっです。
私がこのblogを始めたのは、私みたく、くらっくらっの人を増やしたくないから。
心の風邪だとあやふやな表現で、揶揄されている鬱病、躁鬱に関して、溢れかえっている誤解を解きたいと思います。
前置きはこのくらい。母が癌で十数年前亡くなり、自宅の家事→仕事→実家の父の世話と今では計り知れないスピードで物事をこなしていました。まだ子供たちは中高生。良くも悪くも、自身の人生で最大限の力を発揮していたと思います。
最近になって、ようやく、分かったのですが、頑張り過ぎてました。母の死から半年後に不眠が始まります。全く眠れない、日中も眠れない。二日続いた所で、婦人科の門を叩きました。43歳くらいでしたが、更年期障害だと思い込んだのでした。いや、正確に言うと更年期障害もあり、だったと思います。内診(子宮内膜の薄さで分かるそうです)私は同年齢の人の半分以下でした。更年期障害決定の瞬間です。血液検査も60歳代だとか。ホルモン出てませんねぇということになり、大量のホルモン剤とホルモン注射で、私は競馬さながらのお尻で鞭打つ感覚で忙しさに適応しようと必死でした。
1年半、治療の末、私は、身体中が痙攣してパニックに陥ります。くらっくらっです。固まっていく身体を叩きながら婦人科に駆け込みました。ベッドに横たわらせてもらい過換気症候群(過呼吸発作)の私に先生が静かに語りました。あなたは私の患者じゃないと。あなたは「もう」とついていたかは、定かではありません。とりあえず胸を叩いて、こっちの方だと。これが青天の霹靂と言えずに何が霹靂でしょう。ビニール袋で呼吸の応急手当てを受けながら、また信じられない言葉が頭の上で告げられます。
診療内科に紹介状書いてあげようと思ったけど、三ヶ月待ちだって。自分で探して。と。
私は、既に1年半前から鬱病に浸食されていたのだ。それにも気づかず、毎週、毎週、ホルモン注射で、誤魔化し続け、まさかの「患者じゃない」がエンディングコールでした。思えば、更年期障害の代表的なホットフラッシュや、生理痛もなく。しかし、私はこの時を境に女の象徴も失いました。無理矢理、出血させていたホルモン治療で、私は、生理を迎えていたのです。そう、考えれば、鬱病が本命。更年期障害は大穴だったかもしれませんね。誰も恨むことなかれ、気づける方がおかしいのだから。こうして、私は次の階段、それも急勾配の終わりの見えない戦場に向かいます。では、今日はこの辺で。